金沢能楽会・慈善能(12/19)行ってきました!〜珍しい「乱能」を鑑賞してきました〜

みなさま

いかがお過ごしでしょうか?

前回の金沢能楽会・定例能で本年の鑑賞会は終わり・・・と思っていたのですが、エキストラ第一弾で今回は能楽会主催の「慈善能」鑑賞会に参加してきました。この「慈善能」は2部構成、第一部は通常通りの「狂言・能」の構成ですが、今回のメインは第二部の「乱能」です。(※1)

この「乱能」という単語、みなさんはご存知だったでしょうか?(※2)

休憩時間にネットで検索してみて「やはりそうだったか」と納得したのですが、最初に渡された演目を見たときにまず「何コレ!?」とびっくりすることだらけなのです。

一言で言うと「普段の配役と全く異なるキャスティングで行われる演目」です。

そしてキャスティングは「能楽」「狂言」とを問いません!つまり「狂言師」が「能楽」に配役されることもあれば、その逆もある。つまり普段はコメディーを演じている役者が、急にクラシックバレエを踊らされるようなもので、そのギャップたるや凄まじいものがあります。配役を見てまず最初に目を疑ってしまったのはそれが原因でした。

さらに驚かされたのが「役者」も「音楽」も「地謡」も、全てがシャッフルされているのです

最も強烈だったのが、普段は小太鼓のポジションの方が能学の「間」に配役されていたところです!普段は台詞回しを覚える訳ではないですが、見事に台詞回しを覚え、そしてあり得ないことに能楽の舞台を早足で駆け回る!という、本来の能楽ではあり得ない動きで会場の笑いを誘っていました。

そう、「笑いを誘う」なんてこと、本来の能楽ではあり得ないことですよね!その一方でシテとワキは真剣に演技し、戦っています。このギャップがさらなる笑いを生み、会場は時として「爆笑」してしまう訳です!!

もう一回言いますよ。能楽で「爆笑」なんて本来はあり得ません。それどころか、非常に場違いで失礼な行為とすら受け止められるでしょう。ですが乱能では「何でもあり」なのです。そこが見どころと言えるでしょう。

「何でもあり」なのはこの小太鼓の役者だけではありません。普段は「地謡」で活躍している謡の方が狂言で太郎冠者や次郎冠者を務めたり、はたまた笛の方がワキツレを務めたり、とにかく「この方がコレやるの〜!どんだけ無茶振り〜!」と思わずIKKOのように叫びたくなるくらいのはちゃめちゃぶり。

そして「何でもあり」なのは配役だけではありません。そう、「台詞回し」も人によってはにわか練習。セリフに詰まったり忘れたり、は当たり前。人によっては開き直って、舞台上で「そういえば、次何だっけ?」と開き直って聞いたり、あり得ないくらい後見のサポートが入ったり、その度に会場は大爆笑です。

そして本来厳かなはずの能楽でも、シテ・ワキの行き詰まる戦いを他所に笑いを誘う間の所作・・・乱能とは要約すると、全てが普段通りではない、「何かが根本的にずれて演じられている」演目だといえます。

 

よくよく考えてみると、これはコメディーなのか、それともコレはこれで「意図した」演出なのだろうか、どちらなのだろうかと思うことがしばしばあります。

コメディーという解釈は一見するとわかりやすい解釈です。なぜなら「本来あるはずの演技」「本来プロフェッショナルとしてこなすべき配役」では全くないからです。それは「構えた」観客にある種の脱力をもたらし、そしてそれが「笑い」につながる、という意味においてです。

しかし一方でそれらは「意図されたもの」という解釈も成り立ちます。それは能楽が「総合芸術」だからです。今回の乱能に限らず、たとえば普段地謡を担当されることの多い佐野弘宜さんは、シテとしても活躍されることが多いです。また以前に「間狂言」の投稿で解説したように、狂言師が能楽で「間」を務める事もあり、能楽・狂言の世界も歌舞伎と同じく「一人二役」のパターンが多いといえます。

そして宝生能楽がこのような「乱能」を演じることはまた違った意味があるとも言えます。宝生流は「謡宝生」とも呼ばれるくらい、地謡からまず入ると言われます。ですから、能楽師も狂言師もまず最初は「地謡」や小太鼓、太鼓、笛などから入り、段々とワキの演技へと進んでいく、と私は理解しています。

このように考えると、この「乱能」というのは宝生能楽そのものを体現しているのかな、とも思います。つまり「すべての基本は地謡であり、楽器なのだ。演技というのはあくまでもその延長線上のものなのだ」という、彼ら自身が自分達に言い聞かせるための一種の「反省会」でもあるのでしょうね。

一見地味に見える「後見」のような役回りも、そして(失礼を承知で)単なるバックコーラスと捉えられがちな「地謡」も、実は彼らもシテ・ワキと同様に重要な役割を担っており、彼らが各々の役回りをきちんとこなすことで初めて能楽という全体が仕上がっていく、という重要な認識にもつながってくるところだと思います。

この一年間、定例能への参加を通じて、毎月書かせていただく投稿の中でさまざまな気づきを書き連ねてきましたが、こうして一年のサイクルを経て改めて思うことは「能楽の理解というのは、ただ見ているだけでは理解できない箇所が多すぎる」ということです。つまり能楽とは、その理論をきちんと学ばなければおそらく全体の2〜3割くらいしか理解できないのではないか、そういう意味では能楽というのは非常に高度な抽象芸術だな、というのがこの一年を通じた最大の気づき・学びです。

非常に奥深い世界であると同時に、その奥深さを探求していこうとする営みや学びそのものが私の人生のライフワークの一つとなっていて、無限に可能性が広がっていくのを強く感じています。

来年も当塾は金沢能楽会の賛助会員として、宝生能楽の継承と発展に微力ながら貢献できればと考えています。今後とも当塾の能楽レポートを楽しみにしていただければ幸いです。

(※1)今回の「慈善能」の詳細については、以下の金沢能楽会ホームページをご覧ください。

金沢能楽会とは

(※2)乱能についての詳細は以下のサイトなどをご参考ください。

「能楽トリビア:乱能ってどういうもの?」https://www.the-noh.com/jp/trivia/055.html

「乱能(らんのう)」http://yumin2.jp/play/rannou/

「乱能のこと・・・楽しい舞台公演」https://ameblo.jp/uedakhj/entry-12608350762.html