【連載】「中高オール学年一位」の秘訣 ~性格が悪い人は成功できない!?番外編~

皆様

前回の投稿、少しびっくりされたかもしれません。

あまりの長さ!そして「性格が悪い人は成功できない」なんて言う、一見するととてつもない根性論(笑)

次回のテクニカルなお話をしようかな、と思ったのですが、そもそも考えてみました。「じゃあ、どうやってその謙虚さを養うのか」、そもそも「どうやって謙虚素直な子を育てるのか」ということ。

このテーマは、おそらく受験勉強の範疇を越えて「教育論」そのものに踏み込まざるを得ない壮大なテーマでしょう。私は教育評論家でも、研究家でもありませんからうかつなことを申し上げることはできない。

ですがやはり「夢・やる気を引き出す」と名乗る以上は当塾なりのメソッド、というかポリシーがあってしかるべきではないかというのも同時に塾長としては常に考えています。

一つのヒントとなるのは、やはり「主体性」ではないかと考えています。

このテーマを考える際、私は新卒時の新入社員研修を思い出しました。

なぜ研修はあんなに楽しかったのだろう、そして研修が終わり、現場に配属されたとたんに皆元気がなくなるのだろう?と。

私の同期でも、早い人間で半年以内に辞職していった人間が何名かいました。その中には高専卒の、若手即戦力の筆頭みたいな子達もいたのを覚えています。

研修では責任が発生しないから?現場では現実と向き合わなければならないから?やりたくないことをすすんでやらなければならないから?

現場の仕事には、往々にして「主体性」がありません。まあ、それは仕事だから仕方がないと言えばそれまでですが、そうではあっても楽しく、前向きに仕事に取り組んでいる社員もたくさんいる。ではそうしたハツラツ社員と、いわゆる「やる気のない社員」との違いは何でしょうか?

それはおそらく入社時にすでに「俺はこんなことがしてみたい」「こんなことにチャレンジしたい」という夢・目標があったかなかったか、そして学生時代に養われた「学習習慣」と「忍耐強さ」ではないかと思います。

新人賞をとった私の同期が配属された現場は、彼一人と上司一人でお客様と向き合わなければならない厳しい現場でした。基本的にはお客様の終業時間の21:00までは現場に残っていなければならず、かつ特殊な商品を扱っており「真夏でもスーツ・ネクタイ着用が必須」という、それだけでも嫌になってしまうような現場でした。かつ彼は新人、技術力があるわけでもなく、頼れる人間は上司一人のみ。

しかし彼は一年見事に務め抜き、その頑張りが認められ事業部からも表彰、かつ新人賞も獲得することができました。

やはり彼もとても性格が良く、彼が怒ったり、他人を批判したりする場面を少なくとも私は一度も見たことがありません。もちろん現場では色々あったのでしょうが、少なくとも研修などで会う際にはイライラやピリピリをまき散らしたりすることは絶対しない人間でした。

彼の成功は間違いなく「忍耐」、そしてそれを支えた彼なりの信念・想いでしょう。

こんなエピソードがありました。配属後初めて同期が一堂に会する機会があったのですが、真夏にも関わらず彼は背広・ネクタイ着用で研修場に現れました。

「研修の時くらいネクタイ外せば?暑くない?」と声をかけられたのに対して「いや、ネクタイを緩めると意識が緩む。それはあかん」とあっさりと返していたのが印象的でした。

一年目からでもこのように高いプロフェッショナル意識を持ち、主体的に取り組むことは全く可能なのだ、とその時思いました。そう、仕事に若いとか、ベテランとか言うことはあまり関係がないんだなあと思います。そして彼はそうした主体性を持ったり、夢や目標を持って行動を起こす、そして続けるという姿勢を大学時代に養うことができていたのだと思います。

学生であっても社会人であっても、根本の意識は結局同じなのだと思います。

 

究極は「大学4年間という時間」をどのような時間、何をするための時間と考えるか、という話にもなるかと思いますが、学問を修めて4年後に社会に羽ばたいていくその時のための「準備期間」なのだろうと私は考えています。

例えばバイトをする、インターンをする、様々なイベントに参加したり、自ら主催したりしてみる、学生だけではなく世間一般の方々との接点を徐々に広げていって、自分なりの夢や目標というのを具体化していく時間が大学生活ではないかと考えています。

だからあるものは資格取得や国家試験のために勉強を始めるし、あるものは自ら会社を立ち上げて自分のアイディアを世に問うたり、またあるものは部活動に専心してプロを目指して頑張る人もいるでしょう。いずれにしても「社会との接点」を一人一人が徐々に意識し始める、いろいろと調査・計画をしそれを具体的な行動に移し、その行動の成否を学生の尺度ではなく世間の尺度で評価するようになる(まさに「他人視点」ですね!)。

大学4年間をただの「モラトリアム」ととらえる方もいらっしゃるでしょうが、そうではないと考えています。

ただ、気を付けなければならないのは、大学生活というのはとにかく「主体性」がなければ全く前に進まないということ。私も大学に10年近く在籍していましたのでこのことはよく理解しているつもりです。

何をしても自由、そしてしなくても自由。必要最低限の単位を取得すれば、何の問題もなく進級、そして卒業ができるようになっています。大学とはある意味では極めてドライな場所、自己責任が基本です。

もちろん勉強に打ち込むこともとても大切ですが、その勉強は高校までと違って「卒業後の自分の将来に直結している」ということ。だから勉強をするにしても常に「何のために?」というところを常に自分自身に問うていかなければいけない。

これは「主体性」確立のための訓練が不十分なまま大学入学してしまった学生には、ある意味厳しい環境と言えるかもしれません。だからこそ、受験勉強の過程で「主体性」を見つける・養う訓練をしていないと、大学に入ってから我を失ってしまい、いわゆる「燃え尽き」になってしまうのだと思います。

その意味で、中高生時代にこそ「主体性」「内発的動機」の育成がなおさら重要なのだと当塾は考えています。というか、現代は、私達の世代には当たり前だった「将来の進路は大学生になってから考えればいい。今はとにかく合格を目指してひたすらがんばれ!」という時代ではもはやなくなっていると思います。

学習指導の中で盛んに取り入れられるようになった「アクティブラーニング」、レベル別のクラスへの「自主的な選択と参加」、またどの科目の教科書にもしつこいくらいに出てくる「考えてみよう」「議論してみよう」「他者の意見を聞いてみよう」といった「メタ認知能力」向上を主眼とした課題、これらが意味するものは何も将来の大学入試への対応だけを念頭に行われているわけではありません。

それらは義務教育のより早い段階から「メタ認知能力」を高め、大学ではそれらを実践してほしい、という意図があるのかもしれません。というか、私はそうなのだろうと確信しています。

何が言いたいかというと、大学は高校までの学びの「実践」の場であって、あらたに何か特殊な能力を身につける場ではない、ということ。だからこそ、高校までに基礎体力ができていないと大学生活が全く無意味なものになってしまう。

そして大手企業が重視しているのは実は「中学・高校の学歴」であり、「大学」では必ずしもない、ということも大きなポイントです。(もちろん、学歴がメチャクチャでもいい、というわけではありません)

そして前回の投稿でも紹介した、私がかつてITコンサルティングファームに所属していた時の社長も言っていたのは「人間の基本的な能力というのはおおよそ18歳、そして早ければ義務教育を終える15歳までにその大半が決まってしまう」、だから「大学や、社会人になってから勉強で補える範囲は限られている」ということでした。

その後にも出会ったお客様は、中高が都内の名門私立一貫校、しかし大学はその中学・高校名と不釣り合いなくらい偏差値の低い大学卒だったのですが、大学院で東大に入学された、という方でした。大手外資系のIT企業にお勤めだったそのクライアント様が何で評価されたのか、と考えた時それはやはり中学・高校の学歴なのだろうなと思ったのです。

お二人に共通しているのは「『結果として』東大卒だ」ということ、そしてそれを裏付ける学力、メタ認知能力等はすでに中学・高校時代に養われているという結論です。東大生が東大生たるゆえんは、幼少期からの教育方針・教育内容がすでにその基礎を形成している、ともいえます。

こうした議論はしばしば「東大に入る学生の家庭はたいてい裕福」「お金持ちじゃないと東大に入れない」なんて言う、メディアのうがった見方やよく分かっていない世間の人々の批判の対象ともなる議論です。

もちろん、子供の教育に親御様がそれなりのパワーと経済力を割く余裕があるからこその「良い教育」ではあると思いますが、当塾も本書の主張に賛同する形で「経済力だけではない(経済力が必要十分条件なのではない)」ということを敢えて申し上げたいと思います。

それは本書にも紹介されている「【主体性】を試す東大入試問題」(106-117頁)です。

本書では公共機関の「時刻表」についての出題を通じて「何で勉強なんかしなきゃならないんですかね?」(109頁)という根本的な問いを投げかけています。

この問いに対する本書の答えは、やはり『ドラゴン桜』を引用する形で「勉強とは生きることだ」というのがその答えです。私もこの答えに賛同します。

きれいごとでしょうか?いや、そうではなくリアルな実感としてそう思っています。

私も勉強が決して好きだったわけではないですが、英語と世界史は得意科目でした。なぜなら「世界の人たちと会いたい」「自分と同年代の世界の学生たちと話がしてみたい」という、子供の頃からの素朴な思いをかなえることができる学問だと感じていたからです。

そこから、大学では国際政治学を学び、留学をして世界の学生たちと同じ場で語り合ってみたい、という夢をかなえ、それは私の人生観、価値観をゆるぎないものにしました。私にとっては「英語」と「世界史」こそが「生きること」に直結していたと言えます。

理系を進学する学生の多くは、やはり「子供の頃に体験した~~の謎を解明したくて」「子供の頃に興味をもった~~をより詳しく知りたいと思って」といった、幼少期のワクワク体験を原体験としている方が多いのも同じことだと言えます。

例えば宇宙に興味を持つこと、星や天体に興味を持つこと、花や動植物に興味を持つこと、料理に興味を持つこと、そして私のように幼いころに見た外国のテレビ番組をきっかけとして語学に興味を持つようになること、これらはいずれも「家庭環境の中で、ごくごく自然に興味付けを行うことが可能」なものばかりです。

本書の引用を借用すれば「東大生が育った家庭の多くでは勉強と生活が密接にかかわっている・・・例えば子供を買い物に連れていき野菜の育ち方を教えお金の計算をさせる・・・散歩をしながら雨と雲の関係を説明し月や星の動きについて話して聞かせる。勉強と生活が一体化していれば様々な経験を積むと自然と知識が蓄えられていく」(116-117頁)とあります。

私の家庭でも小学校のときはサマーキャンプに参加させられたものでした。一週間山の中でキャンプ生活をするというもので、私はこれがいつも嫌で出発直前に大泣きしていたものでした。

4年生頃から夏、冬休みに毎回参加していたのですが、6年生になると私は一切泣かなくなりました。なぜだろう、と思ったのですが、慣れもあるのでしょうがキャンプ中に私は結構主体的に動くようになっていたそうで、主催者からも「積極的に活動するようになっていましたね」という講評をもらった、というのを後日母から聞いたことがあります。

キャンプでよくあるメニューは「自分たちで火を起こしてみよう!」「川で魚を釣ってみよう!」「野山で木の実を収穫してみよう!」といったものでした。

私達大人からするとなんでもないことが小学生くらいにはたいそうなことに最初は思えます。しかしながら、子供は容量を覚えるのが早く、私もすぐにマスターできたのを覚えています(川魚は捕まえられませんでしたが)。

サマーキャンプなんていうのは実際に頭と手を両方使い、主体的に考えさせることで課題をクリアしようという意図のもと運営されています。古典的ながらこうしたアクティビティは非常によいなと思います。

そして何より重要なのは「親御様も一緒に関わる」「関わり続ける」ということだと思います。お金を払ってキャンプに参加させる、それだけだとお金を払って塾や予備校に通わせるのとあまり変わらないのでは?と私はいつも思っています。

むしろ定期的に親御様がフォローアップして「どうだった?」「次はどうしたい?」「どこが辛かった?」「一緒に考えようか?」など聞いてあげることが大切なのかな、と。そうして次のキャンプの時までに「目標リスト」みたいなのができて、次回までにその達成に向けて頑張る、といった生活習慣ができれば理想でしょうね。

そういう意味では、世間の親御様を苦しめている「夏休みの自由研究」(笑)も、そういった日常生活の延長線上で考えられるようになるのでは?なんて思ったりもしています(ただし、諸事情からそうできないご家庭の方がいらっしゃることは重々承知致します)

そう考えていくと、「主体性」をはぐくむ源泉は塾や学校などではなくむしろ「家庭環境」、そして何よりも親御様の努力次第(!)という結論におのずとなってきますね

子供の頃覚えてるのは、確か父も母も、私に教えるために自分たちも勉強をしていたのを覚えています。特に母は私に「何かに仕向けること」を目標として、サマーキャンプだったり、小学校の夏休みの水泳教室だったり、「塾での勉強以外」のことに私を多く触れさせていたような気がします。

私の場合はその後父親のスパルタ教育の影響力が勝ってしまい、母の情操教育の出番が少なくなってしまったことは私自身とても残念なことだなと思いました。もし父と母がうまい具合に半分づつ教育を見てくれれば、おそらく私の人生はもう少し違っていたかもしれません。

私の家庭の話はさておき、やはり親御様の関与、しかも継続的な関与が非常に重要だと思います。そして結局はそうした関与を通じてどの程度親子対話ができているのか、という、究極そこでしかないのかなとも思います。

ただ、第三者の塾が、ご家庭内の事情にどの程度踏み込んでいいのかというのは非常にデリケートな問題だと思います。学力を上げてほしい、志望校に合格させてほしいというご依頼で指導をすることはもちろん可能、しかし果たしてそれだけでよいのだろうか、ということは常に考えなくてはいけない大きな課題でもあると感じています。

子供は色々な大人と関わりながら自己・自我を形成していきますから、その大人の一人として学習塾・指導者が合ってもよいと思っています。受容するか、しないかは究極あくまで子供次第、そうした取捨選択を経て自らの主体性を形成、確立していくものと思います。

 

次回以降はややテクニカルな話になっていきますが、最初のテーマは「メタ認知力を高めて行動に移す3つのテクニック」(158頁~)を解説していきます。