【連載】「中高オール学年一位」の秘訣 ~なぜ「褒める」ことが大切か~

皆様

石川県では連日の雨で、すっかり気温も下がり「もう秋かな~」なんて思い始めている今日この頃。涼しくなって運動しやすくなりましたね。

そしていよいよ受験生の皆様も、年内のラスト4か月いよいよ大切なスパートの時期だと思います!身が引き締まりますね。学生時代は私も夏休み明けは「年内あと4か月だ~」とかなり憂鬱でしたが、良くも悪くも「あと4か月頑張ればいい」だから「冷静に今の現状を振り返って、やれること、やるべきことを総ざらいしよう」、そして「悔いの無いよう全力で取り組もう!」と思う気持ちも大切かもしれません。

そう、まさに「メタ認知」的な視点からの自己の客観視、大切ですね。

本日のテーマ「なぜ『褒める』ことが大切か?」についてお話をしていきたいと思います。

「褒めて伸ばす教育」なんていうのは様々な進学塾で一昔前からよく言われることですね。ではその本質は何なのだろう?時には叱ることも重要なのでは?そもそも、褒めるような成績なんて上げていないから・・・なんて思われる親御様もいらっしゃるかもしれません。

もっとも、意味もなく日常のことを何でもかんでも褒めることとはちょっと訳が違うかなと思います。悪いことをしたらもちろんそういう時はしっかりとしかるべきでしょう。そうではなく、教育における「褒める」という行為は「子供たちの成長を認めてあげる」ことだと私は解釈しています。

どういうことでしょうか?

本書を引用すると「これら3つのテクニック(数値目標、行動目標、二重目標:筆者追記)に共通するのは『成長』という要素です」(86頁)とあります。

前回までの投稿で確認した「数値目標、行動目標、二重目標」、これはいずれも「成長」を測定するための物差しとなっている、ということです。そして達成したら「達成できた!」「クリアできた!」「よくやった!」と(言葉に出すかどうかは別として)本人に伝えてあげる、もしくは本人自身が分かるようにすることが大切だ、ということです。

そう、受験勉強のみならず勉強、そして教育一般に関して「ゲーム化」が有効な理由は、まさにこの「成長の実感」にあると言えます。

「褒める」行為とはまさに、この「成長の実感」を他者、つまり両親、学校や塾の先生、時として同級生や友人から認めてもらう、認識してもらう、ということに他ならないでしょう。

本書でも「穴掘りの拷問」の例のように「無意味なことをしているとき」が一番つらい(34頁)、その気持ちはすごく分かります。国立大学志望だったので受験科目も多く、ただひたすら勉強しまくらなければならない、来る日も来る日も暗記、暗記、暗記・・・の毎日。こんな生活がいつまで続くのだろう、と嫌気がさすのも無理はありません。

そんな時に、『ドラゴン桜』のように「お前は成長している」とポンッと言われたら、少なくとも今までの努力が無駄ではなかったんだと分かるし、継続しようと(少なくともその場では)思える、その積み重ねが大切だと思います。

誤解なきよう申し上げると、これは「おだてて勉強させる」「子供たちにおもねる」ということとはちょっと違うと思います。

「内発的動機」や「主体性」が確立できた子供たち、もしくは「内発的動機」や「主体性」を確立するプロセスを正しく踏んでいる子供たちに対して、そのプロセスの中での達成を「褒める」ということはあり得ても、やる気のない子供たちに飴を与えて一時的に勉強に向かわせるようにすることとはわけが違う、そう考えています。

ですから単純に「人間て褒められればうれしいでしょ?だから褒めて伸ばすんですよ」という解釈は成り立たないかな、と。あくまで「成長が測定できる客観的な物差しを提示したうえで」、達成できたことを客観的にしっかりと認めてあげる、その結果としてそれが「褒める」という行為につながる、というのが実際のあり方なのでしょうね。

学生時代のことを振り返ると、「褒める」ということはとても大切だと、今更ながら痛感しています。

私達の年代の受験世代は「ほめて伸ばす教育」なんてものはほとんどなかった気がしますし、「教育」を「個性を伸ばそう」「子供の成長を見届けよう」なんていう視点で考えようとする人間が皆無だったように思います。

学校の先生も、予備校の教師も皆一律に「暗記」「暗記」「暗記」。受験は「辛いもの」「やりたくないもの」「理不尽なもの」、だけどもその辛さを受け入れ、耐えて耐えて耐えて、ひたすら耐えた人間だけが合格を手に入れられる!みたいな根性論が大勢だったような気がします。

私の例の父親も、ご多分に漏れずそういう親でした(笑)父自身が学歴で辛い思いをしてきたため、そして1990年代当初は受験戦争の過熱がピークに達した世代だったということもあり、こうした考えは一層強かった気がします。

私は確かに「中高オール学年一位」を達成できましたが、一つ贅沢ながら言わせてもらえれば「親に褒めてもらいたかったなあ」という点でしょうか。

これは良くない例として敢えて書くのですが、親の側にも慢心があったのだと思います。父親は「お前の行っているようなレベルの低い学校なら、それくらい当たり前だ」というのが常だったのです。

思うに当時は今とは違い「子供の成長を認める」、ましてやそれを「褒める」なんていう習慣、そして発想そのものがほとんどなかったのだと思います。むしろ、そういうことは子供を甘やかせるから駄目だ、子供は厳しくしつけてナンボなんだ、といった見方のほうが一般的だったように思います。

思うに、当時の日本の教育が「子供を褒める」というメソッドを確立できていなかったこともあるのかなと思っています。親なり教師なりがそもそも「褒める」というやり方を知らなかったから、というのもあるかもしれません。むしろ私が学生時代を過ごした20~25年前はまだ教育というものが、子供に対する「性悪説」をベースに成り立っていたように思います。だから体罰、スパルタ教育、何でもありでした。

そしてもう一つ思うのは、「点」ではなく「線」で評価してほしかったな、ということ。「点」というのは「学年一位の達成」なり「大学受験」の結果のこと、そして「線」というのは日々の勉強や生活で見せる成長やそのプロセスのことを指して言っています。

私は結局東大に落ちてしまいましたが、その他の受験校には全て合格しました。父親は極端で「東大に入れなかったバカ息子」という一言で私の六年間の学生生活を総括し、全てが終わりました。「東大不合格」という点(瞬間)の出来事だけで、それまでの6年間の「線」が全て否定されてしまったのです。

一体あの六年間は何だったのだろう、とむなしくなったのを今も鮮明に覚えています。そう、私も「線」で評価してもらいたかったなあ、と思います。

ですが世相の荒廃の中で、そんなことを言っている余裕がなかったというのもあるかもしれません。

1990年代というのは受験戦争が過熱の一途をたどったばかりでなく、社会・経済的にも様々な大事件が起こりました。バブル崩壊と世相の荒廃・経済の大混乱が続きました。つぶれるはずがないと思われていた山一證券、長期信用銀行の相次ぐ破綻、そしてバブル崩壊後の地価急落を背景とした6,850億円という巨額の不良債権処理問題は当時の国会で大論争となりました。そして続く阪神大震災、オウム真理教による一連の事件(坂本弁護士殺害事件、地下鉄サリン事件等)、ノストラダムスの大予言が世間を大混乱に陥れた時期でもありました。長引く不況は大学生の就職事情も一変させ、「大学は出たけれど・・・」なんて言われるような非正規雇用が急激に増加、いわゆる私達のような「ロスジェネ世代」が生まれる最初のきっかけとなったのが、この混乱した1990年代でした。私も当時のことは子供心によく覚えていますが、こうした世相を背景に「学校内暴力・非行」が社会問題化した時代でもありました。

こんな社会状況だったからこそ、「褒める」も何もそんな余裕は教師にあるはずがなく、とにかく「親や先生の言うことをきちんと聞いて、ちゃんと勉強しろ!いい大学に入れ!さもないと将来真っ暗だぞ!」と言うことしか親も教師もできなかった、そんな時代だったと思います。

何だか今のコロナ禍の子供たちの状況と、私達の学生時代の時がオーバーラップして見えてしまうのですね。

「いい大学に入らなければお先真っ暗」と発破をかけられ続け、将来の不安をはねのけたい一心で良い大学を目指して勉強した私たちの世代、そしてコロナ禍でありとあらゆる「学校の思い出作り」の機会を大人たちによって奪われ、翻弄され、受験勉強の唯一の心の支えすらない中で不安な将来に向かって頑張り続けなければならない今の世代の学生たち、とても状況が似ていて他人事とは思えないなあといつも思ってしまいます。

こんな世相での教育の役割とは何だろう?と私なりに考えてみると、ベタですがやはりそれは「子供たちが一歩一歩成長していることを、勉強を通じて認めてあげること」ではないかなと考えています。その延長上に子供たちが「将来こんなことをしてみたい!」「大学に入ったらこんなことにチャレンジしてみたい!」と思ってもらえるようになるのが使命なのではないかな、と。

だからこそ、きちんと「3つの目標」の設定をし、それを達成した時の「褒める」という行為は、とても重要なことだと思うのです

「点」ではなく「線」で評価することの重要性はもう一つあると考えています。それは「似たような困難に対しても、再現性の高い対処方法が立てられる」ということです。

これは社会人になってから痛感しましたが、社会人として成功している方はやはり高学歴者が多く、かつかれらは「成功する(結果を出す)ためのプロセス」を知っている方々でした。

どういうことでしょうか?

彼らの学歴は「結果としてついてきたものだ」ということ。なんだかとても贅沢な話のように聞こえますが、結果を出すための「困難を達成する」「確実に成果を上げる」ためのノウハウ、マインドセットを皆が体得しているのです。学生時代はたまたまそれが「東大合格」という成果として現れたにすぎず、社会人になってからはそれが「仕事上の様々な成果を上げる」という目標に置き換わっただけで、学生の頃から彼らがやることは何も変わっていない。

「受験」であろうが「仕事」であろうが、目標達成のための方法論(つまりプロセス、「線」)がしっかりしているからこそ、どういった目標(つまり「点」)であっても再現が可能となる、これが成功者の強みだと感じました。

そして本書で書かれているように確かに「がり勉タイプ」(古い!?)の方は一人もいらっしゃらなかったように思います。地頭が良い、というのあるのですがそれ以上に(良くも悪くも)容量が良くスマート、という印象です。

だからこそ私は悟りました。「東大合格」という「点」しか見えていなかった私のような人間には、そもそも東大に行く資格がなかったのだ、と妙に納得してしまいました。そう、それは社会人になってからも同じだと感じたのです。

ただひたすら「良い給料」「福利厚生と良い待遇」「上場企業社員という社会的名声」といった「点」だけを得るためだけに就活をし、そして働いてきたのか、それとも「社会で働くことの意義・意味」「自分の強みが活かせる分野は何か」「何が自分の幸せにつながるのか」といった、自身の哲学・価値観・人生観などを深く見つめ、そこから社会に対して自分は何ができるだろう、役に立つことができるだろう?と考えて就活をし、働いてきた人間とでは、5年・10年とたった時の成長度合いが恐ろしいほど違ってきてしまう。

恐ろしいことですね、受験勉強で養った習慣というのが、その後の人生にも大きく影響をしてしまう。だからこそ同じ「大学合格」でも、その後の人生は各自が全く異なる道を歩んでしまうというのは、受験勉強のもう一つの残酷な現実でもあります。

だからこそ受験勉強というのは「社会人教育」の第一歩なのだなと痛感しました。そう、「大学に合格して終わり」ではないのですね

大学入学後も学び続ける人間こそが本当の意味で成功していると言える。そういう人間になってくれて初めて「受験勉強は成功した」と言えるのではないかと考えています。私のように受験が終わったとたんに燃え尽きて、それまで身につけた学習習慣を失ってしまうような人間は、所詮「東大に行くにはふさわしくない人間だった」と今では客観的に思えます。

これも立派な「メタ認知」ですね(笑)こうなってほしくはないな、という思いも込めて書いています。

 

今日はここまで。

次回はいよいよ本書第二章の「自分に『マインドコントロール』をかける3つの条件とテクニック」(119頁)の解説に移りたいと思います。