金沢能楽会(5月)感想② ~狂言の意味とは?~

こんにちは。先週の投稿に引き続き、私なりの能楽考・第二段です。今回は狂言について日ごろから考えていることを綴らせていただきます。

狂言は能楽と能楽との間に披露されますが、能楽が1時間以上の長丁場なのに対して、狂言は長くても30分~45分で短すぎず長すぎず、程よい上演時間なので定例能のたびにいつも楽しみにしています。

能楽がいわゆる「真面目な」「神聖な」ものであるのに対し、一気に「俗っぽい」「大衆的な」演劇が能楽の間に披露されるのは、とてつもないアイロニーであり、むしろこの狂言こそが舞台全体を通じての真の主張であり、表現したいことなのかな?とも思っています。

では改めて本日のお題です。狂言の意味とは?それは「風刺」であり、時として「権力批判」の意味が込められているものだと私は考えています。どういうことか?

狂言も能楽と同様に登場人物はたいてい2人、多くて3人です。そして主人と従者(「冠者(かじゃ)」と呼ば絵れる役割)との間での滑稽な(時として間抜けな)やりとりにフォーカスを当てた、きわめてシンプルな演劇と言えるでしょう。

ポイントなのは、括弧書きにしてしまいましたが「間抜けな」やり取り、という所が最大のポイントだと思っています。そして「間抜けな」やり取りというのは、賢い主人と愚かな冠者との間だけでなく、「愚かな主人」と「賢い冠者」との間のやり取り、という2つのパターンがあります。

もう何となくお分かりかもしれませんが、主従関係においてどちらかが愚かであるために、もう一方がそれを逆手にとって相手を言いくるめたり、困らせてしまうというもの。これは言うまでもなく武家の社会、ひいては「権力」そのものに対する一種の風刺でしょう。

つまり普段は農民・商人ら平民に対して偉そうにしている権力者たちも、実はその日常はこうした滑稽なやり取りがあるのかもしれない、いやそうに違いない、という想像を掻き立てるには十分で、能楽が「静」だとすれば狂言はまさに「動」、能楽では「真面目な」人物として描かれている人物を、狂言では一気にその化けの皮をはがすかのごとくこき下ろし、人物をとても活き活きと描いているの特徴です。

そしてこの能楽、実は会社での上司・部下の関係、企業内での社員のあり方、振る舞いを考えるうえでもとても興味深いものだと考えています。

間抜けな上司と有能な部下、そして有能な上司と間抜けな部下というのは、どちらのパターンも決して幸福な関係とは言えませんがよくあるパターンかと思います。企業内では両者は往々にしてパワハラだの、モラハラだの、言うことを聞かないだのなんだのといって物別れに終わってしまうことが多いのではないでしょうか?

しかし狂言では上司が部下を、または部下が上司を言いくるめて手玉に取ってしまうというユーモラスな結論で締めくくります。そう、必ずしもちぐはぐな人間関係が軋轢や不幸な結果を招くということにはならないんですね。

なぜなら、有能な側が知恵を絞って「相手に悟す」もしくは「相手の悪だくみをかわす」ということを行っている。双方が衝突して、物別れに終わってしまうのではなく、相手に歩み寄ろうという姿勢と、そこから生じる様々な滑稽なやり取りというものが、簡素な芸術ながら人間味の溢れるものだなとも感じています。そこも狂言の魅力ですね。

会社で上司・部下の関係に悩まれている方などは、一度狂言をご覧になるかと良いかと思います。