金沢能楽会(5月)感想① ~能楽は地味か?~

そろそろ能楽会通いから半年がたち、少しずつ自分なりの見方、解釈ができるようになってきた今日この頃。もっとも、完全な素人感想なので、的外れなことばかりでしょうが、鑑賞後の想いを綴らせていただければと思います。

今日のテーマは「能楽は地味か?」ということ。私はもっぱら歌舞伎が好きで、ここ石川県小松市に移住してきたのも「歌舞伎の街」に惹かれたからというのが大きな理由の一つです。

確かに「歌舞伎と比較すると」能楽は地味かもしれません。登場人物も数人、音響も太鼓二人、笛一人、浪曲が四人、舞台も小さいです。そうした「目に見える」部分でいえば確かに能楽の舞台はこじんまりとしており、歌舞伎が「大自然をトレッキングする」感覚ならば能楽は「盆栽」ミニチュアの自然を居ながらにして楽しむ、といった感じでしょうか?

ですがそうした目に見えるものだけで地味、派手を判断してしまってよいのか?と最近は考えるようになりました。

最近気づいたのは、能楽の舞台の周りに敷き詰められた砂利。これは何を意味するでしょうか?そう、皆さんもご存じの「枯山水」の庭園と同じモチーフです(と私は解釈しています)。つまりそこに水はないけれども、水(川)が流れている体に舞台をしつらえている。そしてそこに水が流れているということは、舞台は観客席、つまり俗世とは隔たりをもった「神聖な世界」ということ。ですから能楽が「神事だ」と言われるのは、こうした舞台構成からもうかがうことができるのかな、と。

そしてもう一つ面白いなと思ったのが、舞台の柱です。なんてことはない、舞台の四隅と花道に設置された、屋根を支えるための柱です。この柱、何が面白いのかと言えば、どの観客席に座ろうが「柱に視界を遮られない席が一つもない」と言うことです。

お客さんもたいていは舞台正面の席に座って、すべてを見ようとしますが、それでも花道にある柱はどうしても視界から外すことができない。同じことは花道の真横の席に座っていても同じこと。花道と舞台のつなぎ目の柱が一本、どうしても視界に入ってしまうのです。

これが何を意味するか、お判りでしょうか?そう、枯山水の「石庭」のお話を思い出していただければと思いますが、「庭には石が8つあるはずなのに、どの位置から座って眺めても7つしか見えない」という、アレです。

役者が現れる、もしくは舞っている、そして舞台から去る時のほんの一瞬のことではあるけれども、役者の姿が一瞬その柱によってさえぎられて見えなくなる。では、見えないその間は(一瞬ですが)私たちはどうするのか?

そう、「想像する」のです。石庭の最後の一つの石がどこにあるのか、を心の目で見つめる、まさにそういう心の動きを自然に促すのがこの能楽の舞台の面白いところかなと私は勝手に解釈しています。

能楽の舞台と観客とを分け隔てるこの枯山水の敷石、そしてどの観客席からも必ず視界に入る(つまり役者の姿の一部が見えなくなる瞬間がある)柱があるというこの能楽の舞台、実は京都の銀閣寺のように禅の要素を取りたとても奥深いものなのでは?と考えるようになりました。

と同時に、枯山水様式の庭園や寺院がそうであるように、「シンプルな構成、外観の中に、ものすごく多くの要素が詰まっている」ということ、つまり能楽の「究極の簡素化の美学」に通じるものがあります。

海外の演劇場なども様々な思想が詰まっていることでしょうが、一見かなりシンプルに見える能楽堂にも実はミクロコスモスが体現されているのだ!というのを(私の独断ではありますが)感じ入ってしまいました。

そう考えると、「能楽は地味」なんてとんでもないですね!まあ、一見そう見えるのですが(笑)やはり奥が深い。物凄く深いのです。これからも観能会を重ねていくうちに、色々な解釈ができるようになるといいなと思います。