学ぶとは、何か

 学ぶ、とは何でしょうか?なぜ私たちは、学ぶのでしょうか?なぜ学ぶ必要があるのでしょうか?子供の頃から繰り返し両親や先生に言われ続けてきたからでしょうか?国や政府や偉い政治家たちが言っているからでしょうか?それとも、そうしないと誰かに怒られるから?周りのみんなが勉強しているから?

 私は教育評論家でもなければ、教育者ですらなく、教育とは何ぞやという大上段に構えた議論をここで展開するつもりは毛頭ありません。ですが、今のこの時代だからこそ、一人ひとりが学びの重要性・必要性を考えてもよい時期なのではないかと個人的には感じています。ここ数年のコロナ禍に対する世間の対応のあり方から改めて考えさせられることが多かったのもまた事実です。

 この未曽有の災難の時期に、全人類が否応なく問われたであろうこと、それは「いかに人としての良識を保ち続けるか」さらに言えば「いかに人間が人間としての品位、尊厳を損なわず、気高く生きることが大切か」ということの意味を、まさに全世界の人間一人一人が問われ、己を試された時期だと言っても過言ではないでしょう。

 このような災難の時期にあって、一体誰の言うことが「正しい」のでしょうか?誰かが「解答」を知ってるのでしょうか?答えは、残念ながら「否」です。そう、その「解答」を誰もが絶望的なまでに知りたがっていたにも関わらず、です。一国の政府や政治指導者でさえ、それは無理でした。

 今までは、「こういう事態には、こうせよ。以上」というマニュアルがありました。国も民間も、みんなそのマニュアルに従って、「コンプライアンス重視」だのなんだのという偽りのポーズをとっていさえすればよかった。ところがコロナウィルスという、まさに人類の誰もが経験したことのない緊急事態が発生したとたんに、従来のマニュアル対応が全く通じなくなり、偽りのポーズはことごとくその化けの皮がはがれてしまった。そうして皆が慌てふためき、我を失って精神錯乱状態に陥ったり、人間不信になったり、凶暴化したり、まったく人間性のかけらもないような、まるで野獣のような状態に成り下がってしまった。それが悲しいかな、この禍が我々の人間性にもたらした一つの帰結です。

 しかしながら、人類は過去にこうした未曽有の危機というものを何度も経験しているのです。日本でも、今からおよそ150年以上前の明治維新の最中に人々は大混乱の時代を生きなければなりませんでした。それまで250年以上も続いてきた武士の世の中が終わり、武士・農民・商人という身分差が一瞬にして吹き飛び、皆が「日本人」として生まれ変わることで日本という国を一から築きなおすのだ、という決意を誓った時代がありました。

 そのような激動の時代の中にあって、福沢諭吉は「一身独立して、一国独立す」という命題を唱えました。つまり「日本人一人ひとりが『個人』として独立すること、そのような独立した『個人』が各自の知恵を集め、議論を重ねることを通じて、日本という国も初めて欧米諸国のような独立国家となることができる」という福沢の「独立自尊」の思想です。そしてその「独立した個人」を生み出すための思想的な中核となったものが、かの有名な『学問のすゝめ』です。

 なぜ学ぶのか?という問いはさておき、福沢は『学問のすゝめ』を「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずと言えり」という、有名な一文で始めます。そもそも人間は平等なんだ、と。じゃあ学問をする意味も意義もないんじゃないの?だって勉強をしようがしまいが平等なんでしょ?それでいいんじゃないの?大半の人はそう思いますよね。

 ですが福沢はそんなことを伝えたかったわけではありません。その直後に「しかるに、遍くこの世を見渡すに、賢き人あり、愚かなる人あり。」そして後に「賢きと愚かなるとは、学ぶと学ばざるとによりて生じたるものなり」と続けて論じます。つまり「勉強しようがしまいが、人間に上下の別はない。だが実際問題、世の中には賢い人も、愚かな人もいる。そしてその差は勉強するか否かで決まってしまうものだ」と説く、これが福沢の本論です。つまり、学ぶか学ばないかが貧富の差にまで影響してしまう。では勉強する目的は、裕福になるためでしょうか?お金持ちになるためでしょうか?

 現在では大学を出、さらには大学院を出、有名大学の修士号や博士号を獲得してよりよい給与の職業につくことが当たり前になりました。確かに現代社会では「学ぶ」ことは、「裕福になる」ことの手段の一つであることは確かです。しかしながら福沢の真意はそこにはありません。金持ちになるための方法を延々と説いているわけではありません。なぜなら真の目的は、繰り返し述べた「独立した個人」の育成と輩出にあるからです。

 「独立した個人」とは何か?それは自分の主張や軸をもち、それに基づいて正しく考え、判断することのできる個人のことです(かつて白洲次郎もその軸を「プリンシパル」と言っていましたが、それに近いと言えます)。特に福沢の生きた時代は250年以上続いた徳川幕府が倒れ、日本がそれまで見も知りもしなかった外国勢力(いわゆる列強諸国)と初めて対等に話し、日本人としての主張を世界に対して発していかなければならなかった(そして、そうしなければあっという間に占領されてしまっていたであろう)時代でもありました。それは想像するに、おそらくコロナ禍の現代に匹敵するとも劣らない、大混乱の時代であったと言えるかもしれません。

 そんな中、福沢諭吉を初め明治の知識人が行ったことは何か?それはまず高等教育を充実させることでした。具体的には大学を設立することです。そのため全国各地に帝国大学が、そして民間でも様々な私立学校が設立されました。当時はまさに「智は力なり」だったのです。国は欧米の最新知識を導入し、富国強兵と殖産興業に勤しみましたが、民間の私立学校、たとえば福沢諭吉の慶應義塾は少し目的が違っていました。それは先ほど述べたような「独立した個人」の育成にありました。

 明治時代のように、国が発展のための明確なビジョンを描き、みんながそれに従って盲目的に奉仕しさえすれば、国家の経済力・軍事力が右肩上がりに延び、戦争には連戦連勝(日清戦争と日露戦争)、国民の生活水準も向上し、世界の一等国の仲間入りができた時代も確かにありました。しかしながら、果たして現代はそういう時代でしょうか?今の政府や政治家がだらしない、と言いたいのではなく、一国の政府・指導者ですら解けない難題を全人類に突き付けられ、それまでの物の考え方が全く通じないどころか、一気にすべてひっくり返ってしまった。そんな状況で本当に求められるものとは一体何でしょうか?

 その問いに対する答えは「人間としての良識・尊厳」であり「良識・尊厳を保つための知恵」であり、そして「その知恵を身につけるための学び」なのではないかと当塾は考えています。誰も先を明確に見通せない、暗闇の中を手探りで進まなければならない状況だからこそ、立ち止まって冷静に「今自分はどこにいるのか?」「これから何をしなければならないのか?」「進もうとしているその道は本当に正しいのか?」を正しく見極められる人間になってもらいたいと思います。仮にその道が間違っていたとしても、その過ちを認め、修正して正しい道を歩めるようになればよい。いずれにせよその判断が、他人から言われたことに盲従することによってではなく、常に己自身の知恵・思考に基づいてなされるようになれば、たとえ一時的には間違えたとしても、最後には正しい道に辿り着けるはずです。そしてその知恵さえ備わっていれば、どんな困難にでも立ち向かうことのできる強い人間になることができるはずです。

 話を現実の世界に戻しましょうか。今年は導入が見送られましたが、大学入試センター試験は今春から大学入試共通試験へと移行し、近い将来「記述式」の大学共通入学試験が始まろうとしています。そこでは「正しい答えを書く」形式から「自分の考えを書く」形式の試験問題へ変わっていくと言われています。単に択一式から一部記述式へと問の形式が変わったということにとどまらず、事の本質は「正解がない問題に対し、どう『正解』を見つけていくか?」という能力が問われているのだと私は考えています。

 そう、この「正解がない」というフレーズ、どこかで聞いたことはありませんか?そう、まさに現在の状況そのものです。別に「コロナ禍を生き抜く知恵」とか陳腐なことを言うつもりはさらさらありません。しかしアフター・コロナの時代は確実に今とは違った現実が回り始めるでしょう。そう、悲しいかな、今後何が起ころうとも(たとえウイルスが全滅したとしても)もう以前の世界には戻りたくても戻れないのです。なぜなら、変わってしまったのは「私たち自身」だからなのです。世の中の考え方が何もかも変わってしまうような変革期にあっても、おそらく「知力」は普遍的な力を発揮するに違いありません。それは人類史上のいかなる時代・地域にあっても、人間が持つ究極の現状打破力・突破力の源であり続けました。そしてそれは、これからも絶対的に揺らぐことのない、最強の武器であると私は確信しています

 小論文には一見すると答えが無いようで、実はきちんとした解答が存在しています。そしてそのきちんとした解答に則って初めて「主張」や「意見」を展開できるし、だからこそ筆者以外の人間にも読んでもらえる。世のすべての「論」と言われるものは、必ず何かしらの形で「他人に聞いてもらえること」そして「理解・共感してもらえること」を前提として書かれています。だからまず「聞いてもらえること」の大前提をきちんと理解し、書けるようになることがスタート地点だと考えています。一から突拍子もないことを延々と書き連ねていけば、それはただの「妄想」や「暴言」でしかなく、ましてや「論」などではない。福沢の『学問のすゝめ』が長い歴史を経て語り継がれているのも、やはり「理解してもらう」そしてそのための「分かりやすさ」や「論理性」があればこそです。そしてその「分かりやすさ」や「論理性」こそが、己の考えの軸、つまり「揺るがないもの」であり、究極的には「独立した個人」を形成する要素そのものとなるのです。

 小論文指導とは、何も大学受験という短期的な目標だけのために行うものではないと考えています。本来なら大学生になってからも、社会人になってからも必要となるスキルです。私のつたない社会人経験から振り返っても、おそらく社会人となってからのほうがより一層求められるスキル、と言えるかもしれません。「独立した個人」という大げさな話ではなく、自分の考えを伝える、そしてその前提として自分の立場や考えをはっきりとさせるためにも必要なものなのです。そしてそれは人と人とが不可避的に交わりあう現代社会においては必要不可欠な能力でもあります。

 表面的には大学受験指導という形を取りますが、本質は今までで述べたようなスキルを共に考え、伸ばしていくことが目標となります。ある意味では「究極の学び科目」と言えるかもしれません。小論文の過去問題を「解答例省略」とする手抜きの過去問集もありますが、私からすれば怠慢の極みですね。しかしながらそれだけパワーを使う科目でもある、だから中途半端に手を出してはいけない、というのもある意味では正しいかもしれません。しかしながら小論文受験を考えている受験生には、そんなことは何の言い訳にもなりません。受験生は何であってもとにかく学びたい、ヒントが欲しいのです。だから私も生徒と極力同じ目線に立ちたいと思い、生徒と同じように制限時間内で解いた解答を解答例として掲載しますし(すでに当塾の高校・大学入試問題解説でおなじみだとは思いますが、実はそういう目的があります)、「XXX式」だの「XXXメソッド」だのという姑息なノウハウに頼らなくても、きちんと制限時間内に解けますよ、という極めて現実的な解法を示しつつ、じゃあそれをどうやればできるようになるか?をお伝えするのが当塾の役目であると考えます。

 多くの進学塾のYoutube解説動画を拝見させていただいておりますが、やはり小論文講座なんてものは存在しません。きっと面倒くさいと思っているのか、それとも対面でなければ、紙と鉛筆を使わなければ、指導できない科目だからだとでも思っているのでしょうか?そんなことはありません。リモートでも、画面と動画だけでも、十分にそのエッセンスをお伝えすることができるのではないか?という私自身の仮説に対する挑戦の意味もこめ、長くなりましたがこの度小論文講座を開講することといたしました。

当塾の講座が何らかの役に立つことがあるとすれば望外の極みです。